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脳死と臓器提供

脳死判定時に臓器提供をするかどうかーこれについて検討するとき多くの人が考えることは「脳死からの生還はあり得るのか」であろう。実際に「脳死」というキーワードで検索をかけると、「脳死からの生還」という予測候補が出てくる。なるほど、脳死から生還したという前例があれば、その可能性にかけて臓器提供をするべきではないが、生還の前例がないのであれば助かる見込みがある他人のために臓器提供をしたい、と考えるのは当然であろう。しかしながら、前例を調べるとその有無は判然としないようである。

脳死からの生還という事実があれば、まずその脳死判定が正しかったのかが議論されることになる。一方で、その事実は無視できないのであり、前例が全くないとはいうことができない。そのようなジレンマが存在しているようだ。

  ここで一つ問うことにする。果たして、脳死からの生還の前例が無ければ臓器提供を認める、という論は正しいだろうか。人体は精密で独特だ。更に医学は日々進歩している。もしかしたら、自分自身が最初の脳死からの生還者となるかもしれない。自分の命の選択を前例に任せるという表現をすると、改めて考え直したくなる人もいるかもしれない。もちろん、確率的に考えることは合理的であるのだが、特有な(固有な)体質のひとりが脳死から生還したことをもって生還の可能性があると考えて良いのか、では何人が、何パーセントが生還するのならば可能性があると捉えられるのか、等々疑問は次々に生じ、たとえ前例の有無が確定しても臓器提供の是非は決められそうにない。

  だからこそ、臓器提供の決定は難しい。ここでは生還の前例について述べたが、他にも周囲の人の意向や臓器移植という行為の倫理性など、考えることはたくさんありそうだ。世間には臓器提供の意思表示カードなるものが存在し、その記入率が少ないと嘆く記事もみられるが、人々は臓器提供に関心がないのではなく、提供をするかしないか決めかねているのではないだろうか。「はい」「いいえ」の二択の選択式ではなく、臓器提供についてどう考えるか文章で記述する表示形式があっても良いかもしれない。


…そういう私は、自分は臓器提供をしても良いって考えとるけど、臓器提供の意思表示を記入したらなんかよくないことが起こりそうな気がしてなかなか記入できんのんです…ビビリですんませんm(._.)m