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ネットと人格

 誰しも色んな側面をもっている。常に一定の感情をもった状態であるという人はさほどいないであろう。近年では、インターネットの発達とともに、人格に関して興味深い現象が起きてきた。本記事ではミクロとマクロの両視点から二つの現象を紹介する。

 第一に、個人の人格の分裂である。心理学的見地からみて、中学生から高校生のいわゆる思春期に、第二次的な自我が芽生え、自分自身の存在意義を問うたり、自身に対して以前とは異なる特別な感情を抱いたりすることは、人間の成長における当然の現象とされている。近年では「アイデンティティ」という言葉で説明され、「中二病」なる用語でも周知のことであろう。この現象は人格の分裂というより拡大である。子供から大人へと成長する過程で、視野が広がり新たな視点から自身を考察できるようになったことの表出であるといえるし、もちろん生物学的に脳容量が増加した結果として説明できるであろう。また、この「人格の拡大」においては、全人格を管理する主としての人格(以下、主人格とする)が存在する。例えば、日記等において、新たに生まれた人格(以下、新人格)を現出させたとしても、現実に戻れば主人格が主導権を握るのであり、いずれは人格が統合されて行く。しかしながら、ネットの普及によって人格に変化が起きた。ネット上ではSNSやブログ等を通して、会話を行い交友関係を築くことが可能である。つまりネットは、閉鎖的な日記帳とは性格を異にし、新人格であっても充分に存立が可能なのである。もちろん主人格は内在しているが、ネット上でのその拘束力は脆弱なものであろう。こうして、新人格は、主人格に吸収される必要も薄く、本人がネットの使用をやめるまで存立し続けるのである。

 それでは、この人格の分裂はどのような結果をもたらすだろうか。なるほど、人格が分裂すれば、その人の多様性に資するかもしれない。しかしながら一般的な傾向として、主人格と新人格では、陽と陰、正と負のような、対極的な性格を持つことが多い。たとえ両人格が対立していなくても、二つの人格を内包するといることは、ある種のストレスとなる可能性がある。例を挙げれば、ある景色を見て、一方では「美しい」と感じ、もう一方で「景色を見たくない」と感じていれば、心が晴れない気分がするのは想像に難くないだろう。また、自分の人格が分裂するということは、コミュニケーションをとる相手方の内部でも人格の分裂が生じていることが起こり得るのであり、自分の思考が恒常的でないことで混乱し、さらに相手の思考を汲み取れず、悪い意味でコミュニケーションが複雑化する恐れもあるのである。そうした中で、即応性の求められる対面型コミュニケーションを苦手と考える傾向が強くなるかもしれない。

 第二に、マクロの視点から捉えれば、総体的なネット人格の統合という現象が起こっている。これは、第一の現象とは矛盾しない。ネット上で、ある人格が自然発生的に創造され、新人格がそれに近づいて行く、とも説明できるのである。具体的に言えば、近年のいわゆるネットスラング(例えば、「ワロタ」「禿同」「誰得」など)を皆が使用することで、ネットの匿名性とあいまって、掲示板等でのコメントの発信者が、ひとつの人格に収斂していく現象のことである(もちろん掲示板では様々な意見が存在しそれ自体が一致することはないが、ここでは人格のことを取り上げており、意見と人格は階層が異なるものであると考える)。人格というものは、様々な面から判断される。対面型コミュニケーションであれば、(意見の内容はさておき、)話し方や表情、声の抑揚、アイコンタクトなど枚挙にいとまが無い。しかしながら、ネット上、つまり文字においては、その文字から書き手の人格を判断する他ないのである。もしも筆者がこの文章全体の語尾に「ぴょん」を付けたなら、ふざけた人格だと判断され文章の威厳は底に達するぴょん。よって、ネット上では、文字が人格を判断する際に最大の役割を担うのであり、ネットスラングを使えば、容易に感情表現できる代わりに、発信者に個性のない人格が推定されるのだ。

 それでは、この現象の帰結はどこに見られるだろうか。まず、ネット上の統合された人格は、自己と異なる他を排斥する排除性がみられる。ネットスラングが飛び交う会話の中で一般的な言葉を用いると、それはネット熟練度の低さへと転嫁され、卑下し排除する対象になり得る。ネット上である人格が作られたところで、現実世界には何ら問題はないが、時にその人格がネットから現実世界に現れることもある。例を挙げるならば、近時ある種の流行りとなっている、社会で問題を起こした人の個人情報をネットで公開する行為(いじめによる自殺、職場での常識を外れた行い、店員に土下座させた女性などが記憶に新しいであろう)である。統合された人格を用いる者の中では、排除性の対岸に、一種の連帯感、協調が生まれる。そのような中で、ひとたび不法な行為を働いた人を糾弾するという「偽りの正義」が生まれると、匿名性、集団心理、連帯感から、その人格を共有するネットユーザーは過熱し、終には個人情報を公開するという、人権に反する行為へとつながってしまうのである。この行為は現在の法制度や国民の処罰感情から取り締まりが容易ではなく、なかなか規制できない。冷静になれば人権侵害だとわかる人でも、人格を共有することで冷静さを失ってしまうのだ。

 以上のように、ネットの普及とともに、我々の人格は外部からの大きな影響を受けるようになったといえる。人格は自ら形成するものだ。一度分裂し生まれた人格は、軌道修正が難しい。それでは、どうすればネットを利用しながら、ネットの影響を受けない人格を形成できるであろうか。その答えは「念願は人格を決定す」という、住岡夜晃の言葉に見出せる。この言葉は「継続は力なり」の前に続く言葉であり、本来の解釈からは異なるが、自らがこうありたいと考えながらネットを利用すれば、自然とそのような人格をもった人間へとなれるのである。ネットユーザーが外部的な影響を受けないためには、このような覚悟と信念が必要なのではなかろうか。