Le journal pour moi

文章力向上のためのブログ

国民はバカである

  政治に関して国民はバカである。国民の半数は選挙権を持ちながら選挙にすら行かない。彼らは自分が投票しても何も変わらない気がする、投票したいと思う人がいない等、わけのわからない理由付けをする。国民はしばしば選挙の際に知名度を重視し、芸能人やスポーツ選手を政治家に選んでしまう。ある宗教に入っていれば、当然にその宗教が支持母体である政党に投票してしまう。メディアに面白いほど影響され、ある政党が衰退していると報じられればその政党に投票しない。そうかと思えば、何があろうとも同じ党に投票し続ける国民もいる。たまたまある代表の演説を街中で聞いたからという理由でその政党に投票する。メディアが不景気だと報じれば財布の紐を固くしめ、好景気だと報じればどんどん消費する。公務員をやみくもに批判する。ある政治課題について市長が必死に説明しても、自分から情報を得ようともせず、結局その政治課題についてよく分からない、何がメリットなのか分からないと平気で答える。「民は由らしむべし、知らしむべからず」という言葉があるが、それも一理あるのではないかと思ってしまう。
  もちろん、全ての国民が上述の列挙事項に該当するわけではないということは言うに及ばない。しかしながら、若者を中心とした選挙離れや政治への関心低下は、現実に問題視されており、その背後に上記の国民像が伺えはしないだろうか。民主主義を国民主権として説明するならば、これまで歴史的に望まれてきて、やっと達成したはずの民主主義でさえも、その正当性を疑わなければならない。国民の国民による国民のための政治であるから、正統性をもつ国民が決めるのが正しいー確かにそれは正論かもしれない。がしかし、敢えて穿った見方をすると、たとえ国民が国民にとって不利益な選択をしたとしても自業自得である、という解釈も可能である。私たち国民は、バカな国民に政治選択を任せて良いのだろうか。

  筆者ももれなくバカな国民の一人である。バカと言われて黙っておくわけにはいかないので、言い訳をしておこう。まず、私たち国民にはそれぞれのやるべきことがある。政治家が政治について考えるのと同水準において、建築家は建築について考え、商人は商売について考え、主婦は家事について考える。なにも政治家だけが偉いのではない。彼らは職業上、幸運なことに、政治について学び、知る機会を偶然得ているだけなのである。つまり、政治家と他の国民の間に存在する、政治についての情報格差は、仕方のないものなのだ。逆に国民全員が常に政治について考えていれば、当然に社会は成り立たない。また、現代においては社会が複雑化し、国民がバカから脱するために求められている基準が高くなっている。昔であれば、人々を平等に扱うか否か、人権を尊重するか否か、という問題に対して、大半の国民は内容を理解し、意見を持つことができたであろう。しかし現代の、原発をどうするか、特定秘密保護法を認めるべきか、TPPににどう取り組むか、などといった諸問題は、重要でありながらその影響が広く様々な領域に及び、更にはその選択肢も多様にある。国民はこれらの問題が浮上すると、情報量が0に近い状態からスタートし、まずその困難な内容を正確に理解しなければならない。先述のように、その問題に取り組む時間は各自限られているし、メディアは次から次に新しい問題を提示してくる。以上のことから、国民はバカであるべくしてバカなのだ。そんな国民に民主主義だと持て囃して重要な判断を強要し、それを断ると選挙は義務であると言って投票をしない国民を非難する。それこそ勝手すぎはしないか。

  こんな言い訳をしたところで、民主主義は民主主義である。考えられる政治システムの中で、民主主義は最も正当性を有するであろう。必ず国民に資する判断をする存在でもいない限り、それ以上の制度は存在しない。いわば妥協点である。もしもそんな判断を下す存在があったとしても、国民は私的自治を理由にそれを良しとしないかもしれない。そこで考えるべきことは、どうやって国民がバカから脱するかという一点に絞られるだろう。
  思うに、現在の政治システムでは、国民が意見を発する場が少ない。多様な意見があり、又、政治問題の知識を有していても、アウトプットの場がないのである。投票で国民代表を選ぶだけでは、このアウトプットに十分な機会を与えているとは言い難い。代表は必ずしも支持者の意思に拘束されないからである。北欧では、国民が直接政治討論に加わり、意見を表明する仕組みが存在している。日本でも同様の場を設け、それを通して国民を啓蒙していかなければならないであろう。

…数十年後に、政治の知識のないアイドルや読者モデルが若者の支持を受け、議員になっている、というような事態が起こっていないことを唯々願うばかりである…。