Le journal pour moi

文章力向上のためのブログ

戦争とスポーツ

 しばしばスポーツは平和と結びつけて議論がなされる。もちろんその理由としては、オリンピック等、諸国の協力によって催される行事があること、そこでは現実で反発している国々でも同じルールの下で同じ競技を行うこと、貧困や病気に苦しむ各国の人々が公平に評価されることなどが挙げられるだろう。しかしながら、スポーツの目的として、「勝利」が重要な要素なのであり、そこでは「戦い」を抜きにして話をすることはできない。そうであるならば、スポーツ=平和、と短絡的に結びつけることはできないのではないだろうか。スポーツにはその根本的・本質的なところに、平和につながる要素が隠されているのである。
 結論から言うと、スポーツの平和的側面の要素は、戦争との類似性だ。ある国で選手(兵士)を育成し、ある時期に行われる大会(戦争)で国々が戦い合う。国民は勝利のために声援(戦争協力)を送り、見事勝利を勝ち取れば歓喜し、負ければ悔しさを募らせる。この点で、スポーツと戦争は同様な構造を有するのである。では何故、平和と戦争の違いが生じるのか。そこには大きく二つの相違点があるのだ。
 第一に、当然ながら勝負の内容の相違である。スポーツは各競技での勝利を目指す一方、戦争は国の勝利を目指す中で、兵士・民衆レベルでは殺戮が行われる。したがって、スポーツ試合が終わった後は負の感情としてせいぜい悔しさが残るくらいだが、戦争の後は親族を失った遺族、荒れ果てた領土、植民地等、非常に大きな負の遺産が残るのである。定期的に行われるスポーツ試合の性質から、悔しさは次回大会で晴らす機会を与えられるが、戦争は当然不定期なのであり、負の感情が爆発的に高められるまで残存し続けることも看過できない違いだ。
 第二に、国民の関わり方である。スポーツと戦争の両者ともに、国民がその戦況と結果に熱中する点で共通するが、前者では国民がせいぜい応援を送る程度であるのに対し、後者では国民自体の生活にしわ寄せがくる。例えば、増税による生活の困窮や、命の危険、文化的生活の軽視、戦争訓練等の参加である。愛国心の高まりにより、自国の他国への優越を主張する人々はどのような時代にも生まれてくるのであり、時にはそのような人々のガス抜きをしなければならない。スポーツが定期的に行われる中でガス抜きは自然とされる点で、戦争によらず自国の優越を感じせしめられるのである。
 以上に挙げた類似性相違性からスポーツと戦争は代替的な性格を持つことがわかるであろう。重要なことは、この相違性が相対化してはならないということだ。例を挙げれば、スポーツの声援・試合の中で領土問題を主張するような行為、失敗を犯した選手に国家的な度を越えた非難を加える行為、競技の勝利のために国民の生活に負の影響を与える増税等の行為、勝利によって領土等現実的な報酬を与える行為などであろう。ナショナリズムには良い面も悪い面も存在する。その両面をスポーツでうまく処理していけば、本当の意味でスポーツ=平和という構図が実現されるのではないだろうか。

ネットと人格

 誰しも色んな側面をもっている。常に一定の感情をもった状態であるという人はさほどいないであろう。近年では、インターネットの発達とともに、人格に関して興味深い現象が起きてきた。本記事ではミクロとマクロの両視点から二つの現象を紹介する。

 第一に、個人の人格の分裂である。心理学的見地からみて、中学生から高校生のいわゆる思春期に、第二次的な自我が芽生え、自分自身の存在意義を問うたり、自身に対して以前とは異なる特別な感情を抱いたりすることは、人間の成長における当然の現象とされている。近年では「アイデンティティ」という言葉で説明され、「中二病」なる用語でも周知のことであろう。この現象は人格の分裂というより拡大である。子供から大人へと成長する過程で、視野が広がり新たな視点から自身を考察できるようになったことの表出であるといえるし、もちろん生物学的に脳容量が増加した結果として説明できるであろう。また、この「人格の拡大」においては、全人格を管理する主としての人格(以下、主人格とする)が存在する。例えば、日記等において、新たに生まれた人格(以下、新人格)を現出させたとしても、現実に戻れば主人格が主導権を握るのであり、いずれは人格が統合されて行く。しかしながら、ネットの普及によって人格に変化が起きた。ネット上ではSNSやブログ等を通して、会話を行い交友関係を築くことが可能である。つまりネットは、閉鎖的な日記帳とは性格を異にし、新人格であっても充分に存立が可能なのである。もちろん主人格は内在しているが、ネット上でのその拘束力は脆弱なものであろう。こうして、新人格は、主人格に吸収される必要も薄く、本人がネットの使用をやめるまで存立し続けるのである。

 それでは、この人格の分裂はどのような結果をもたらすだろうか。なるほど、人格が分裂すれば、その人の多様性に資するかもしれない。しかしながら一般的な傾向として、主人格と新人格では、陽と陰、正と負のような、対極的な性格を持つことが多い。たとえ両人格が対立していなくても、二つの人格を内包するといることは、ある種のストレスとなる可能性がある。例を挙げれば、ある景色を見て、一方では「美しい」と感じ、もう一方で「景色を見たくない」と感じていれば、心が晴れない気分がするのは想像に難くないだろう。また、自分の人格が分裂するということは、コミュニケーションをとる相手方の内部でも人格の分裂が生じていることが起こり得るのであり、自分の思考が恒常的でないことで混乱し、さらに相手の思考を汲み取れず、悪い意味でコミュニケーションが複雑化する恐れもあるのである。そうした中で、即応性の求められる対面型コミュニケーションを苦手と考える傾向が強くなるかもしれない。

 第二に、マクロの視点から捉えれば、総体的なネット人格の統合という現象が起こっている。これは、第一の現象とは矛盾しない。ネット上で、ある人格が自然発生的に創造され、新人格がそれに近づいて行く、とも説明できるのである。具体的に言えば、近年のいわゆるネットスラング(例えば、「ワロタ」「禿同」「誰得」など)を皆が使用することで、ネットの匿名性とあいまって、掲示板等でのコメントの発信者が、ひとつの人格に収斂していく現象のことである(もちろん掲示板では様々な意見が存在しそれ自体が一致することはないが、ここでは人格のことを取り上げており、意見と人格は階層が異なるものであると考える)。人格というものは、様々な面から判断される。対面型コミュニケーションであれば、(意見の内容はさておき、)話し方や表情、声の抑揚、アイコンタクトなど枚挙にいとまが無い。しかしながら、ネット上、つまり文字においては、その文字から書き手の人格を判断する他ないのである。もしも筆者がこの文章全体の語尾に「ぴょん」を付けたなら、ふざけた人格だと判断され文章の威厳は底に達するぴょん。よって、ネット上では、文字が人格を判断する際に最大の役割を担うのであり、ネットスラングを使えば、容易に感情表現できる代わりに、発信者に個性のない人格が推定されるのだ。

 それでは、この現象の帰結はどこに見られるだろうか。まず、ネット上の統合された人格は、自己と異なる他を排斥する排除性がみられる。ネットスラングが飛び交う会話の中で一般的な言葉を用いると、それはネット熟練度の低さへと転嫁され、卑下し排除する対象になり得る。ネット上である人格が作られたところで、現実世界には何ら問題はないが、時にその人格がネットから現実世界に現れることもある。例を挙げるならば、近時ある種の流行りとなっている、社会で問題を起こした人の個人情報をネットで公開する行為(いじめによる自殺、職場での常識を外れた行い、店員に土下座させた女性などが記憶に新しいであろう)である。統合された人格を用いる者の中では、排除性の対岸に、一種の連帯感、協調が生まれる。そのような中で、ひとたび不法な行為を働いた人を糾弾するという「偽りの正義」が生まれると、匿名性、集団心理、連帯感から、その人格を共有するネットユーザーは過熱し、終には個人情報を公開するという、人権に反する行為へとつながってしまうのである。この行為は現在の法制度や国民の処罰感情から取り締まりが容易ではなく、なかなか規制できない。冷静になれば人権侵害だとわかる人でも、人格を共有することで冷静さを失ってしまうのだ。

 以上のように、ネットの普及とともに、我々の人格は外部からの大きな影響を受けるようになったといえる。人格は自ら形成するものだ。一度分裂し生まれた人格は、軌道修正が難しい。それでは、どうすればネットを利用しながら、ネットの影響を受けない人格を形成できるであろうか。その答えは「念願は人格を決定す」という、住岡夜晃の言葉に見出せる。この言葉は「継続は力なり」の前に続く言葉であり、本来の解釈からは異なるが、自らがこうありたいと考えながらネットを利用すれば、自然とそのような人格をもった人間へとなれるのである。ネットユーザーが外部的な影響を受けないためには、このような覚悟と信念が必要なのではなかろうか。

絶対音感について

 絶対音感という能力がある。音を聞いただけでその音の音名が分かるという能力のことだ。筆者には幸運なことにその能力が備わっているが、それに気づいたのはほんの数年前のことである。それまでは楽器を演奏する人なら皆音名が分かると考えていた。

 本記事では私の絶対音感がどのようなものかを記載するが、その前提知識として二点のことを伝えておかなければならない。

 第一に、音感には「絶対音感」と「相対音感」があるということだ。絶対音感は、いきなり音を聞いただけでその音名が分かるという、いわゆる皆が想像する能力のことである。これは幼児期にしか身につかないとされている。相対音感は、その名の通り相対的な音感のことで、ある音が他の音より高いことが分かったり、基準となる音の音名が分かればそこからの差を元に、聞いた音名を割り出せたりする能力のことである。これは、訓練することで年齢にかかわらず身に付くとされている。

 第二に、上述した音感には個人差があるということだ。楽器の音なら音名が分かるという人もいれば、物を落とした音や声など全ての音の音名が分かる人も存在し、一口に音感とはこういう能力だということは難しいのである。

 それでは本題に移る。先に断っておくが、私は絶対音感が備わっていることを自慢したいわけではない。先述のように、数年前まで絶対音感に気づかなかったことからどれほど大したものでないかは想像できるだろうし、特に歌がうまいわけでもない。単に、絶対音感がどのように聞こえるのかを述べたいだけである。

 私は楽器の音であれば音名を判断することができる。しかし、全てというわけでなく、極端に低い音や高い音は判別できない。また、同時に聞けるのは4音ほどであると思う。楽器の音に限らず、ガラスコップを叩いた音や、救急車のサイレンなど、楽器に近い音であれば音名が分かるが、物音や話し声など、楽器音とはかけ離れた音を音名にすることはできない。いわゆる初歩的な絶対音感であろう。

 つづいて、音名がどのように判断できるかについて述べる。私が思うにこの能力は言語と強力な連関を有しているようだ。ある人が「ほげー」と言えば、当然私たちはその人の声で「ほげー」と聞き取れる。絶対音感もそれと同様で、ある楽器で「ラ」の音を鳴らせば、その楽器の音で「ラ」と言っていることが聞き取れるのである。つまり、音を聞いた途端にその音名が分かるのであり、聞いた音を音名にする作業は存在しないのだ(もしくは瞬時に脳が変換をしているのかもしれないが、少なくとも私にはその作業が行われているとは意識されない)。

 絶対音感の音名と言語の連関を証拠づける要因として、一つ例をあげる。私は音楽を聞いたらすぐに音名が分かるが、その音楽に歌詞がついてしまうと、全くと言っていいほど音名が分からなくなるのだ。恐らく、同じ言語という段階において、「歌詞」と「音名」が競合し、歌詞を聞き取る能力が音名を聞き取る能力に勝るため、このような結果が生じるのではないだろうか。つまり、歌詞と音名は同じ脳の部分で処理され、双方とも両立しない「言語」の段階に属しているのだ。

 さらに話は具体化するが、ある曲を滅茶苦茶な音名で歌われた場合、私はその正しい音名を判別できない。一方で、全ての音を「ラ」や「ル」で歌ったり、ハミング(鼻歌)で歌ったりした場合、その「ラ」や「ル」を言語として捉えないように聞くことで、私は音名を判別することができるのである。ここまでくると自分でもその境がよく分からずもはや感覚的な話になるのでなかなか伝わらないかもしれない。

脳死と臓器提供

脳死判定時に臓器提供をするかどうかーこれについて検討するとき多くの人が考えることは「脳死からの生還はあり得るのか」であろう。実際に「脳死」というキーワードで検索をかけると、「脳死からの生還」という予測候補が出てくる。なるほど、脳死から生還したという前例があれば、その可能性にかけて臓器提供をするべきではないが、生還の前例がないのであれば助かる見込みがある他人のために臓器提供をしたい、と考えるのは当然であろう。しかしながら、前例を調べるとその有無は判然としないようである。

脳死からの生還という事実があれば、まずその脳死判定が正しかったのかが議論されることになる。一方で、その事実は無視できないのであり、前例が全くないとはいうことができない。そのようなジレンマが存在しているようだ。

  ここで一つ問うことにする。果たして、脳死からの生還の前例が無ければ臓器提供を認める、という論は正しいだろうか。人体は精密で独特だ。更に医学は日々進歩している。もしかしたら、自分自身が最初の脳死からの生還者となるかもしれない。自分の命の選択を前例に任せるという表現をすると、改めて考え直したくなる人もいるかもしれない。もちろん、確率的に考えることは合理的であるのだが、特有な(固有な)体質のひとりが脳死から生還したことをもって生還の可能性があると考えて良いのか、では何人が、何パーセントが生還するのならば可能性があると捉えられるのか、等々疑問は次々に生じ、たとえ前例の有無が確定しても臓器提供の是非は決められそうにない。

  だからこそ、臓器提供の決定は難しい。ここでは生還の前例について述べたが、他にも周囲の人の意向や臓器移植という行為の倫理性など、考えることはたくさんありそうだ。世間には臓器提供の意思表示カードなるものが存在し、その記入率が少ないと嘆く記事もみられるが、人々は臓器提供に関心がないのではなく、提供をするかしないか決めかねているのではないだろうか。「はい」「いいえ」の二択の選択式ではなく、臓器提供についてどう考えるか文章で記述する表示形式があっても良いかもしれない。


…そういう私は、自分は臓器提供をしても良いって考えとるけど、臓器提供の意思表示を記入したらなんかよくないことが起こりそうな気がしてなかなか記入できんのんです…ビビリですんませんm(._.)m

  

ネットユーザーの低年齢化

体罰、いじめ、幼稚園の待機児童など、子供と教育に関しては多くの問題が存在しているだろう。私はそれらの中で最も重大なのが「ネットユーザーの低年齢化」であると考える。しかしながら、この問題に対しては何らの対策がなされてはいないように思える。それどころか、そもそも問題視すらされていないのではないだろうか。

具体的な例を挙げると、ツイッターでは小中学生のユーザーが溢れ、youtubeニコニコ動画では、論点または動画の趣旨を捉えきれていないようなコメントや、言葉の使い方に誤謬を含むコメントが散見される(もちろん、そのようなコメントの書き手が必ずしも子供であるとは限らないが…)。また、いわゆる「詐欺コメ(=営利目的で自らの商売の宣伝をする怪しいコメント)」に対して、過剰に反応し非難をするコメントを見たことがある人も多いのではないだろうか。彼らはそのような営利目的のコメントが自動的になされることを理解していないようである。

もちろん、子供がネットを利用するなと主張したいわけではない。IT化が進む現代社会において、パソコン操作に通じていない人材が不利益を被る可能性も否定できないし、友人との交遊においてネット使用を制限されている子供が悲しい目に合うことも想像に難くない。もはやそういう時代に到達しているのだ。

それでは何が問題なのであろうか。デメリットは数多く考えられるが、以下に2つの重要な問題を挙げる。

第一に、教育に関する問題である。周知の通り、学校で使用される教材は文部科学省の実施する審査を受け、それに合格したものが使用されている。しかしながら、ネットの情報は何らの審査も受けない。良い意味で「自由な」意見、一方で非常に偏った意見が主張されるのだ。小中学生においてはメディアリテラシーの能力が未成熟な場合が多い。データの読み方、相手の意見の汲み取りなどは社会科や国語科を通して徐々に学んでいくが、そのような学力基盤のない状態でネットの情報に飛び込んでいくのは非常に危険であるはずだ。動画サイトには国家批判や宗教批判、政党批判に関するものが多々アップされているが、被権利侵害者の申し立て等がない限りその情報はそのままの形で公開され、子供たちはそれらを完全に信じてしまう可能性がある。批判的な観点から情報を考察する子供などまずいないだろう。そして、それらの情報のやり取りは子供とパソコンの間のみで行われる。他の誰も介入していない点で、子供がその情報について周りの大人に意見を求めない限り、修正の余地を残さないのだ。中国の反日教育を批判する人もいるが、それとあまり変わらない状況が現に存在しているのである。

第二に、現実への関心の希薄化である。ネット上には大量の情報が存在し、その名の通り網状に情報が広がっている。ひとたびネットに入り込んでしまうと、そこから抜け出すのが難しくなる。近年ではネット上で、アニメが子供たちだけでなく大人の注目も浴びているが、現実世界とは異なる二次元の世界が展開されることで、明るく話題に富み奇想天外な展開を期待できる二次元の世界に関心を過度に抱きすぎて、現実の世界に絶望感や不安感を感じる人も多いのではないだろうか。これは近年の選挙率の低下にも連関をもちそうだ。また、小説とは違った、映像や音がすべて備わっているアニメの世界は、想像力を減退させ、考える力を衰えさせる可能性も有している。さらに、以前は社会に適応できなくなった人々が二次元の世界に逃避するという構造が存在していたが、今日では二次元の世界に踏み込みすぎてしまったため社会に適応できなくなるという、順序の逆転が生じているようにも思える。これらはネットのアクセシビリティ(近付きやすさ)や情報の多量さに原因を見出すこともできそうであろう。

以上のように、便利さ、娯楽性の反面、ネットの抱える闇は大きい。性的暴力的な情報など有害な情報の子供への伝達を制限する対策は一部ではとられているが、ネットの情報の多量さゆえにすべてを制限することは不可能に近い。家族や学校など、周りの大人によるより一層の注意が改めて必要とされているのではないだろうか。

映画:終戦のエンペラー

終戦のエンペラーという映画を見てきた。ほぼ満席だったのだが、客の9割5分がご老人の方々で、自分はかなり浮いていたような気がする。

ネタバレは人間最悪の行為であると考えるので内容の詳述は控えるが、とても満足のゆく映画だった。2回も泣くとは予想だにもしなかった(笑)

 

今回の映画はもちろん戦争ものであった。ところで、最近領土問題や憲法9条改正のニュースを頻繁に目にするが、皆さんはどうお考えだろうか。恐らく僕が生きている間は少なくとも日本で戦争は起こらないであろう。しかし、永遠に戦争の方向に進まないとは断言できないと考える。

自分は平和主義であり、どんなことがあっても戦争をすべきではないと考える。戦争だけでなくいかなる武力行使もすべきではない。が、自衛に関しては問題がある。流石に諸外国からの攻撃を無抵抗で耐えろとは思わない。しかしながら、あらゆる戦争が自衛という名の下に行われてきた。国民が自衛か否か判断しなければならないが、ナチス政権下のように国民さえ誤った方向を支持することもあるのだ。

そうであるならば、いかにして火種となる紛争を避けるかが重要な鍵を握るであろう。これに関して「人種主義を利用する」という新提案をここに述べる。

もちろん人種主義は誤った考え方である。完全なグローバル化が達成され(=国家の境目が消失し)たなら、人種主義はなくなるのかもしれないが、それは現実的な話ではない。恐らく国家は永遠に存続するであろう。よって、相手をその所属する共同体で判断してしまうことは避けられないことなのだ。現に、ある一人のA国人が犯罪を犯しただけで、「A国の人間は危険だ」と考えてしまう状況が存在しているだろう。

そこで、「人種主義を利用する」とは、A国人の一人ひとりがそれぞれB国人との関係を深めたとき、A国の人は数人のB国人のことを連想し、紛争に抵抗感を抱くようになるのである。この論理はひとりの外国人からその外国人全体に効果を及ぼすという点で人種主義と共通しているが、全く逆の力を有するのである。

幸い今日、インターネットの発展で外国人と新たに出会い、気軽にコミュニケーションをとれるシステムが整っている、しかし、まだまだ外国人と交流しているユーザーは少ないであろう。今後、外国人との交流に主眼をおいたデバイス開発の市場が開けるかもしれない。

逆説的な人種主義の利用で紛争がなくなれば良いと思う。もっともこのような平和ボケした理論だけでは戦争がなくなるわけはないと批判されるかもしれないが…。平和が一番なのである。

ブログなるものを開設致し候。

夏休みに入ったのでブログを開設してみました。

日頃考えたことを書いて、文章力の向上を企図しながら意見の主張していきたいと考えています。

批判コメも含めてお気軽に意見ください(^^)