Le journal pour moi

文章力向上のためのブログ

【小論】不満のちから

 人間はいかに我儘な生物であるか。夏になると暑いと言い、冬になれば寒いと不満を述べる。空腹さを訴えたと思ったら、食べ過ぎて苦しいと叫ぶ。彼らが不満を言わない日が、これまで一日でもあっただろうか。人間は永久の不満の中で、幸福を探求し続ける存在であるようだ。

 しかしながら、不満を卑下してはならない。およそ、発明と言うものは人間の不満から創造されてきた。夏の暑さから解放された冬に不満を抑えていたなら、クーラーという最高の発明は生まれなかったであろう。不満を持ち続ける限り、発明は停止しないのである。

 思うに、不満の利点は発明に留まらない。人生においても不満のちからは絶大だ。現状に対する不満は、その打開策を我々に提示し、人間はそれを経験することで成長する。不満は向上心に等しいものなのだ。
 過剰な心理的抑圧を危険視したフロイトの議論は、ここにおいても別の側面から正当化されるだろう。

【小論】快適さの裏に

 海外旅行を経験した多くの日本人が思うことー日本はなんと豊かで恵まれていることか。例えばお店ー。フランスでは多くの店が夜9時ごろには閉まっている。コンビニなんて、もちろん日本のようにはない。そこで、日本人は外国での生活の大変さを感じ、日本の便利さを再評価することとなる。
 ーだが、物事の本質を忘れてはならない。店が24時間営業している裏側に、24時間働く日本人の姿があるのである。外国では比較的早くに店を閉めると、家に帰宅し家族の団欒がある。日本人は客の少ない夜中にも、便利さのためにせっせと働くのだ。
 要は、何を選び何を捨てるかだろう。便利さと豊かさを安易につなげてはならないはずだ。

【ひとりごと】朝日新聞と吉田調書

 朝日新聞が載せた吉田調書に関する記事の取り消しが問題になっている。

国民は、自ら考え、冷静になるべきだ

 たかが一社の誤報を必要以上に突ついて、大した確証も無いイデオロギーのもと、一社の購読者を減らそうとしたところで何になるのか?一昔前なら左翼思想を持った人間をこの世から減らすという目的も合理的であっただろうが、現代においては右左という思想区分など時代遅れではなかろうか。社会が複雑化し、論点も多様化し、思想の区分は相対化した。革命も現実的でない日本において、その主張には何の意味があろうか。

 私が今回の件で危惧しているのは、新聞社の誤報と謝罪に国民の関心が向かい、肝心なもの、一つの会社を超えたもの、イデオロギーの重要さに比較するまでもない生命の安全という論点が薄らいでしまうことである。具体的には吉田調書の内容である。

 誤報問題に関心を持った人間の中で、吉田調書を詳しく知ろうとした者の割合はいかほどであろうか。そこには、原発事故が起こった際の生の声や、現場の感じた恐怖がまざまざと伝えられている。

 個人的には、吉田調書の内容を見た上で原発再稼働を主張できる人の心境がわからないが、例え原発推進派でも吉田調書の内容は考慮に入れるべきであろう。どちらにしろ、メディアの論点設定を絶対視せず、自ら着目し考えることが必要なのである。

 今や世論は最大の力となった。その自覚はあるだろうか。同時に世論は理論を上回った。その責任はあるだろうか。
 特段意見を区分けする必要はない。確かにその方が簡単かもしれない。しかし、その区分によって自らが騙されてしまっては元も子もない。自らが考え、是々非々の姿勢でいるべきである。
 

【小論】若者の離職率

 大学を卒業し、3年以内に離職してしまう若者の割合は、およそ3割である。試験や面接を経てやっと就職したのに、3割の人が離職してしまうというのは、決して少ない数字ではなく問題であろう。
 高い離職率の背景には、国内だけでなく海外の会社とも競争に晒され、安売り競争が激化し、余裕のなくなった企業の実態、その結果、社員育成に十分な指導を行う余裕がない一方で、競争に勝つため新入社員に多くを求めてしまうこと、等があげられるだろう。また、最近の若者は…という(平安時代からあるような)論評で、若者の忍耐力の欠如を指摘する声もあろう。
 これ以外にも無数の要因が考えられるだろうが、その一つに、物質的な豊かさと選択の自由を勝ち得た現代人の当然な結果、というものが挙げられるかもしれない。近年では雇用形態も多様化し、その仕事を辞めたら生きていけないという状況はなくなった。また、経済面でも極端に困窮する世帯の割合は減少し、多くの若者が比較的余裕をもった生活を送ってこられている。さらに、学校や習い事、余暇の過ごし方、など全ての分野において、選択の幅は広がった上、それを自由に選びとり取捨することもできている。この豊かさと自由に慣れ親しんだきた若者たちは、就職して初めて余裕の無さと自由の制限に直面し、混乱・絶望するのである。加えて、就職した先が数十回にも及ぶ面接を終えてやっと通った会社であるような場合、その会社に大した思い入れはないだろう。その結果、離職を妨げる存在はなく、従来謳歌してきた「自由な選択」を、離職という形で行使するのだ。
 豊かさと選択の広がりも大いに結構だが、経済的な幸せを考えると、やはり仕事を続けることは必要になってくるであろう。豊かさ・自由を制限する、皆が希望の職に就くことは現実的ではない。ならば、選択の制限に遭遇してもある程度の覚悟が予めできると良い。近年指摘されている大学での勉強機会の確保も考慮に入れ、四年間大学で十分に勉強した後、その後数年間を就活や長期職業体験の時間にあて、それから就職できるような制度の構築が望まれる。

【小論】宙に浮く保険金

 宙に浮く保険金の問題は様々な観点から論じる余地がある。保険会社からの通知が詐欺と間違われるという、現代ならではの防犯意識向上の弊害、親族間で保険の存在が伝えられていないという個人主義の影響等、どの話題を論じても面白そうだ。
 そんな中で最も気になるのは、保険契約者(保険金受取人)に対する保険会社の誠実な対応だ。保険法95条によれば、保険金請求権の消滅時効は3年である。しかしながら今回の事案では、たとえ時効期間が経過していても、会社独自に受取人を調査し、保険金の支払いを行っているようだ。また、本来保険給付の請求があってから保険金の支払いを行うが、今回は会社の側から支払いを通知している。
 やらしい話だが、もし保険給付の請求がなく、時効消滅してしまえば、当然会社に利するだろう。それをマスメディアや世論による指摘なしに、自ら問題視して対処している点は評価できる。純粋に信義誠実に基づいた対応なのか、それとも今後マスコミに指摘されると踏んだのか、もしくは、運営に経済的な余裕があることの表れなのだろうか。

自民党の今

  特定秘密保護法増税集団的自衛権の行使容認など、近年安倍政権は次々に物議を醸す政策を実行に移し、見事に成功させている。これについて不満を持つ国民は少なくないであろう。そして、自民党の「暴走」をこのままにしておけない、何とかできないのか、と憤る人々もいるに違いない。
  政治の仕組みからすれば、この解決は簡単だ。次の総選挙で自民党を政権から引き摺り下ろせば良い。それが民主制の正しい道筋で、国民は何も悲観する必要はない。こんなことになるなら自民党に投票しなければ良かった、自民党に投票した自分にも責任がある、と有権者の地位にある自らを責める必要はないのである。有権者として自民党政権の業績を冷静に判断し、次の投票でその判断を活かすことで、たとえデモ等に参加しなくても、充分民主制を支える一国民になり得るのである。
  蓋し、今の自民党に「暴走」という言葉を当ててしまうのは致し方ない。自民党は衆参で多数を占め、連立を組むことで法案の通過を可能にしている。また、次の選挙は任期通りにいけば2016年の衆参ダブル選挙でまだ時期的に余裕がある。いやむしろ、選挙が見えてくると思い切った政策が打ち出せなくなるため、今が絶好のチャンスなのである。エレクションタイミングが迫っていない今のうちに、やりたい政策を続けざまに打ち出す、これは実に合理的で政治制度上当然の結果ではなかろうか。「暴走」だ何だと言われようが、のろのろ政策を進めていれば選挙が迫ってくるため、この時期にやりたいことをやって当然であろう。
  以上のように、ここまでの話では、日本の今の民主制に重大な瑕疵があるとは思わない。もちろん、集団的自衛権解釈改憲は議論を呼ぶところであり、筆者も反対の姿勢を示さざるを得ないが、次期選挙で自民党が多くの支持を失い政権から引き摺り下ろされれば、一応は民主制原理が保たれるのだ。
  しかしながら、ここで重大な問題が生じる。果たして自民党が政権を失うことがあり得るのか。言い換えれば、自民党に変わって政権を担える政党が存在するのかである。日本は二大政党制を有するとされるが、その民主党は前回の政権で大きな失敗をした。第三党を狙っていた日本維新の会は分党することになり、みんなの党渡辺喜美氏の不祥事で大打撃をくらった。こうなると、今の政権で自民党がどれだけ横暴をふるっても、政権交代の可能性が小さく、選挙でもってしても国民の真を問えない状況が存在しているのだ。「暴走」真最中の今、解散総選挙をしたとしても、自民党に何の影響もない、むしろより多数の議席を得られる可能性もあるのである。
  これらのことを考えると、民主制の重要な要素として、第二党、第三党の存在が挙げられるだろう。国民はそれらも見据えた投票をする必要があるのではないか。また、選挙間近になって、政権与党がポピュリズム的な政権を打ち出してきても、まんまとその策略に引っかかってはならない。何が正しいかという判断はもちろん各有権者にあって然るべきだが、政権の業績を「覚えておく」ことも民主制の重要な要素ではなかろうか。

国民はバカである

  政治に関して国民はバカである。国民の半数は選挙権を持ちながら選挙にすら行かない。彼らは自分が投票しても何も変わらない気がする、投票したいと思う人がいない等、わけのわからない理由付けをする。国民はしばしば選挙の際に知名度を重視し、芸能人やスポーツ選手を政治家に選んでしまう。ある宗教に入っていれば、当然にその宗教が支持母体である政党に投票してしまう。メディアに面白いほど影響され、ある政党が衰退していると報じられればその政党に投票しない。そうかと思えば、何があろうとも同じ党に投票し続ける国民もいる。たまたまある代表の演説を街中で聞いたからという理由でその政党に投票する。メディアが不景気だと報じれば財布の紐を固くしめ、好景気だと報じればどんどん消費する。公務員をやみくもに批判する。ある政治課題について市長が必死に説明しても、自分から情報を得ようともせず、結局その政治課題についてよく分からない、何がメリットなのか分からないと平気で答える。「民は由らしむべし、知らしむべからず」という言葉があるが、それも一理あるのではないかと思ってしまう。
  もちろん、全ての国民が上述の列挙事項に該当するわけではないということは言うに及ばない。しかしながら、若者を中心とした選挙離れや政治への関心低下は、現実に問題視されており、その背後に上記の国民像が伺えはしないだろうか。民主主義を国民主権として説明するならば、これまで歴史的に望まれてきて、やっと達成したはずの民主主義でさえも、その正当性を疑わなければならない。国民の国民による国民のための政治であるから、正統性をもつ国民が決めるのが正しいー確かにそれは正論かもしれない。がしかし、敢えて穿った見方をすると、たとえ国民が国民にとって不利益な選択をしたとしても自業自得である、という解釈も可能である。私たち国民は、バカな国民に政治選択を任せて良いのだろうか。

  筆者ももれなくバカな国民の一人である。バカと言われて黙っておくわけにはいかないので、言い訳をしておこう。まず、私たち国民にはそれぞれのやるべきことがある。政治家が政治について考えるのと同水準において、建築家は建築について考え、商人は商売について考え、主婦は家事について考える。なにも政治家だけが偉いのではない。彼らは職業上、幸運なことに、政治について学び、知る機会を偶然得ているだけなのである。つまり、政治家と他の国民の間に存在する、政治についての情報格差は、仕方のないものなのだ。逆に国民全員が常に政治について考えていれば、当然に社会は成り立たない。また、現代においては社会が複雑化し、国民がバカから脱するために求められている基準が高くなっている。昔であれば、人々を平等に扱うか否か、人権を尊重するか否か、という問題に対して、大半の国民は内容を理解し、意見を持つことができたであろう。しかし現代の、原発をどうするか、特定秘密保護法を認めるべきか、TPPににどう取り組むか、などといった諸問題は、重要でありながらその影響が広く様々な領域に及び、更にはその選択肢も多様にある。国民はこれらの問題が浮上すると、情報量が0に近い状態からスタートし、まずその困難な内容を正確に理解しなければならない。先述のように、その問題に取り組む時間は各自限られているし、メディアは次から次に新しい問題を提示してくる。以上のことから、国民はバカであるべくしてバカなのだ。そんな国民に民主主義だと持て囃して重要な判断を強要し、それを断ると選挙は義務であると言って投票をしない国民を非難する。それこそ勝手すぎはしないか。

  こんな言い訳をしたところで、民主主義は民主主義である。考えられる政治システムの中で、民主主義は最も正当性を有するであろう。必ず国民に資する判断をする存在でもいない限り、それ以上の制度は存在しない。いわば妥協点である。もしもそんな判断を下す存在があったとしても、国民は私的自治を理由にそれを良しとしないかもしれない。そこで考えるべきことは、どうやって国民がバカから脱するかという一点に絞られるだろう。
  思うに、現在の政治システムでは、国民が意見を発する場が少ない。多様な意見があり、又、政治問題の知識を有していても、アウトプットの場がないのである。投票で国民代表を選ぶだけでは、このアウトプットに十分な機会を与えているとは言い難い。代表は必ずしも支持者の意思に拘束されないからである。北欧では、国民が直接政治討論に加わり、意見を表明する仕組みが存在している。日本でも同様の場を設け、それを通して国民を啓蒙していかなければならないであろう。

…数十年後に、政治の知識のないアイドルや読者モデルが若者の支持を受け、議員になっている、というような事態が起こっていないことを唯々願うばかりである…。